こうして箱は届けられた

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  (拾)  

 5.
 死んだのだろうと言われていた彼は、あまりにも突然に帰ってきた。
 激戦区へと送られた彼の情報は何もなく、おそらくは彼の隊も全滅で、形だけの葬儀もすでに行われてしまっていた。
 その彼が、現れた。

 「正史様…?」
 須崎分家に仕える使用人、藤野ふじのの家は 本家の近くにあった。
 そして仕事を終えて家に帰ろうとしていた藤野が、彼の姿を発見したのは偶然で。
 目を疑うしかなかった。見間違いかと考えた。
 当たり前だ、20年近くも時を経た今、正史には何となく昔の面影が残るだけ。――その記憶もぼんやりとしていて、もしも藤野が史郎の存在と姿を知らなけ れば到底気付くことなどできなかった。
 「正史様…!」
 彼のことを正史だと、そう確信した時点で藤野は走り出していた。人通りの多い町の中、絶対に彼の姿を見失うものかと必死になる。
 「正史様!」
 藤野はようやく自分に気付かず歩いていた正史の服を掴んだ。突然のことで少し体をよろめかせた正史は、藤野を振り返って目を丸くする。
 「藤野?」
 「覚えておいででしたか」
 そう歳の変わらない2人。主人と使用人というよりは友人という関係に近かった。だからこそ当時正史と咲子のことを“醜聞だ”と周りが責める中、藤野だけ は一切そんなことをしなかった。
 「老けたな…」
 昔と変わらない儚げな笑顔。よくこの方は生き残れたなと藤野は思う。それでも彼に、外見とは似つかわしくない強い意志があることを知っていた。
 だから彼は帰ってきた。

 ――片腕と片足を無くしても。

 ああ、何故。ただの使用人である自分が、須崎家に仕えているからと徴兵を免れたくせに。
 主筋である正史が、何故こんなことになったのか。
 「痛々しいか、この姿が」
 問われ、藤野は正直に頷いた。
 「それでも私は帰ってきた」
 「はい…」
 「咲子に会うために、戻ってきた。答えて欲しい、藤野。咲子は未だ1人で貴志から与えられたあの家に?」
 藤野は首を振った。
 「いいえ、1人ではございません。立派に成長した、貴方と咲子様の御子と一緒です。史郎様は、本当に良い青年へと成長なされました」
 「そうか…そうだった、咲子はたった1人で私たちの子を育ててくれたんだったな…。“史郎”と、それが私たちの子の名前か」
 この方はおよそ20年自分の子の名前さえ知らなかったのだ――そんな事実に改めて気付いて、藤野の表情が自然と曇る。
 「会いに行かれますか?」
 「いや…」
 一瞬凍ったような表情を浮かべた正史に、藤野は寒気を感じた。
 「正史様?」
 「やりたいことがある。藤野、あの子は…貴一――咲子と貴志の子は、今も息災か」
 「ええ。彼は――」
 彼は史郎と仲が良いということを告げるのを、何となく躊躇った。
 「でもきっと貴一は、何も知らないのだろうな。本当の母親のことも、自分の父親が今の母親を本当に思っているのかどうかも…そんなこと、何も知らないの だろう?」
 「当主様は、奥様をちゃんと思ってらっしゃいます」
 「咲子よりも? あいつが、咲子よりも愛する女性がいると?」
 再び冷えていく正史の声。
 藤野は彼のこんな声を――少なくとも20年前までは――聞いたことがなかった。
 「何を考えてらっしゃるんです…?」
 やっとの思いでそう尋ねた。
 「貴方は、今何を考えているんですか…?」
 「貴一に教えてあげようと思って。だって咲子のことだからきっと、私の所為であの家を追い出されてからも貴一のことを考えない日はなかったに違いない。 貴一はそんな彼女の愛情を知らない。なんて虚しく、なんてもの悲しい――そんなこと、私は許せない」
 「でもそれは、貴一様のお心を乱します。貴一様は奥様を本当の母親だと思い、そして20年前の出来事など知りもしません。わざわざ告げなくともよろしい でしょう? ただでさえ貴一様と貴志様はここ最近上手くいっていらっしゃらない様子。私から見ても、貴志様の20年前のなさりようはあんまりだと感じまし た。愛した女性を家から追い出し、粗末な家に住まわせ、たった1人で子を産ませて育てさせた。貴方も遠い地へと送りました、運が良ければ帰ってこられるだ ろうと…そんな風に言われていた場所へ。誰もが、生きて帰ってくるなど考えもしないような死地へ」
 自業自得だと言えばそうかもしれない。
 実際先に彼を裏切ったのは正史と咲子の2人だった。
 だけどその報復は、確実に2人を惨めなものに変えた。
 ましてや貴一は咲子の子、史郎と親友同士。自分の父親がしたことを、どう捉えるというのだろう。
 悩んで、悩んで。
 悩み苦しむ彼の姿を想像するのは容易く、できることなら悩ませたくはない。
 しかしそんな藤野の必死の思いも、正史には届かなかった。
 「私は、咲子が大事なんだ。咲子が…咲子だけが。いや、今は咲子と私の間に生まれた子も」
 だからどんなに悩み苦しもうが構わない。
 ただ、知ってさえくれればいい。須崎家で、しかも本家で何不自由なく育ってきた自分には、誰よりも深く幸せを願ってくれている存在があることを。そして それを知らずに生きてきた自分を、恥じてさえくれればそれでいい。
 「正史様…そこまで」
 そこまで、強く願っているのなら。
 その強い眼差しが、しっかりと前を見据えているのなら。
 「では私に協力させて下さい」


 協力を願い出た藤野は正史が言った通り、まずは咲子の住む家にあるという箱を取りに行った。
 “パンドラの箱だよ”と正史は言う。
 パンドラの箱――災厄の箱。開ければ貴一自身に何か良くないことをもたらすと、そう正史も自覚していたのだろう。
 生まれついておよそ20年。大人たちの確執は、全て赤子の頃のこと。何も知らずに成人を迎えた貴一には、今更教えなくてもいいような事実。
 ……ああ、どうかこれが、彼にとって“災厄の箱”となることがないよう。
 事実をありのままに受け入れて、正史の望む通り、彼女を母親だと素直に思ってくれるよう。
 今まで母親だと信じてきた奥様、今はどことなく溝ができている旦那様、彼らへの思いが変わることなく、普段通りの生活を続けていけるよう。

 全てが変わらずにいてくれればいい。
 そんなことを願うのは、ただの贅沢ですか。
 ただもう20年前のことを、今更掘り返すのは私にはあまりにも…巻き込まれる子どもたちが可哀想で。
 それでも正史の気持ちがどことなく分かってしまうから、協力したい衝動に駆られてしまった。

 藤野はパンドラの箱を手にして思う。
 正史はこれを貴一に渡せと言った。自分が持っていた鍵と一緒に渡せと言った。
 けれど想像してしまう。この箱を1人自室で開く貴一の姿を。中にあるものを目にして、父親に対する不信感も持つだろう。他にも様々なことを思い悩むかも しれない。
 ――だったらせめて、親友と共に。
 本当は異父兄弟…その事実を知らず、自分たちの意志で彼らは親友となった。
 どうせ思い悩むのならば、自分が最も信頼する人と、それを共有して欲しい。2人で相談しあえるのなら、ずっと心は楽だろう。

 箱は史郎に、鍵は貴一に。
 中にあるものを見るのは、きっと2人で。
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