届けられた物
(弐)
史郎のもとに、箱が届いた。
貴一のもとに、鍵が届いた。
「おはようございます、母さん」
史郎が朝起きあがると、母親はたいてい台所で朝食を作っている。史郎は台所に行って母親に挨拶し、ちゃぶ台の前に座った。新聞が置いてあり、それを何と
はなしに手にとって開く。
「史郎さん、ご飯ができましたよ。新聞を閉じて下さいな」
母親がそう言いながら朝食を運んできた。史郎は大して記事も読まずに新聞を横に置き、母親からご飯と箸を受け取った。本日の朝食も白いご飯とみそ汁、そ
してわずかな漬け物。質素なものだが、白いご飯さえ食べられなかった頃よりは断然ましというものだろう。
史郎は上品にも音を立てずにほとんど具のないみそ汁を飲み、一粒一粒噛みしめるようにご飯を食べていく。
「そういえば、昨日箱がどうとか言っていましたよね」
そう母親が話を切り出した。
「もう気にしないで。よく見たら私の友人から届けられた物だったから。母さんは何も気にしないで」
「そうですか。怪しい物ではないのですね」
「はい、ではごちそうさまでした」
史郎は立ち上がった。“行ってきます”という思いを込めて彼女に礼をし、鞄を取りに部屋まで戻った。昨日見つけた箱にいったん目をやり、悩んだ末鞄の中
に詰め込む。そのまま玄関に向かって靴を履き、戸を開いて外に出た。
今日も暑いな。
空は雲ひとつない快晴。強い日差しで肌が痛い。――まだ早朝だと言うのに。
5分くらい歩くといつもの貴一の待ち合わせ場所まで来た。貴一はまだ来ていない。というか、貴一が史郎よりも早く来たことなんてない。待ち合わせ場所と
いうのはちょうど史郎の家の方向と貴一の家の方向とを分ける曲がり角。史郎はいつものようにその辺の砂利の上に座り込んだ。側に生えてる雑草をちぎり、草
笛を作ったりなどして暇をつぶす。
プー、プー
草笛作りはうまくいったようだ。左手を地面についてそれに体重をかけた。右手で草を口に当て、適当に音を鳴らす。
「うまいもんじゃね」
通りかかった老婆が史郎の隣に座った。
「ありがとうございます」
近所にそう人は多くない。史郎はこの老婆が誰か知っているし、勿論老婆も史郎のことは赤ん坊のときから知っている。
「史郎さん、今日も貴一さんと待ち合わせかいね」
「そうです」
「あそこの家の旦那さん、えらくご立腹なさっておるんじゃて」
「ええ、分かっています」
史郎は穏やかに微笑んだ。老婆も楽しげに笑う。
「史郎さんは父親似だね。優しそうで気弱そうで、でも意志は強い男だからね。――史郎さん、どうかあの家にはあんまり関わらない方がいいと、このお婆は
思うんじゃがね」
「ご忠告は感謝しますが、私は貴一と友だちをやめる気などありません」
「じゃろうね。正史さんの息子な
ら、
そう言うだろうよ」
正史というのは史郎の父親の名だ。
「史郎!」
貴一の声が聞こえてきた。老婆はよっこらしょと立ち上がる。
「じゃあね、史郎さん。お婆は史郎さんも正史さんのようにならないよう、日々祈っておるからね」
腰を曲げ、その腰に片手を当てながら、老婆はゆっくりと去っていった。すぐに貴一が到着する。
「今の、佐々さんちのお婆だろ?」
「おはよう、貴一。佐々さんはいつまでも元気そうだね」
「もう70だろ? 生き過ぎじゃないか?」
「若死にする人も多いんだから、ちょうどいいくらいだろう」
貴一ははっとして口をつぐんだ。史郎の父親がもう亡いことを思い出したからだ。
2人はとぼとぼと歩き出し、日差しの中を学校へと向かった。けど史郎の頭の中から、老婆の声が離れない。
史郎さんも正史さんのようにならないよう……
単に早死にするなと案じているのだろう。史郎はとりあえずそう納得した。そして、鞄の中の箱のことをすっかりと忘れていた。
学校に着いた。いつものんびり歩くこの2人はたいていが始業のチャイムと同時に到着する。今日もギリギリに着いたため、クラスメートとろくに挨拶も交わ
さずに席についた。すぐに授業が始まり、終了するとクラスメートが史郎の回りに集まってきた。穏やかな気質の史郎はみんなから好かれ、友だちも多い。
次の授業の準備をしようとしたとき、あの箱を鞄の中に入れていたことを思い出した。
そうだ、貴一に訊こうと思っていたんだ。
ふと史郎が貴一の席を見ると、彼の姿はそこにも、教室の中にもない。
「またさぼっているのか……」
史郎は箱をもう一度鞄の中に戻し、教科書を机の上に置いた。
「パンドラ…パンドラ…」
貴一は図書室にいた。本であの紙に書かれてあった“パンドラの箱”について調べているところだ。この学校の図書室は最上階にあって、最上階がまるまる書
庫となっている。図書室の設備はいい方だろう。それは貴一の家からの寄付のおかげもあった。よって貴一はさぼってこんな所にいても、司書にとがめられるこ
とはない。
「あぁ、あった」
貴一は本を見つけ出し、その場に座ってページを開いた。
パンドラの箱:ギリシャ神話に登場するあらゆる災厄を閉じこめた箱。
ゼウスが人類最初の女であるパンドラに与えた物。
パンドラがこの箱を開けたためにあらゆる諸悪が飛び出し、
蓋をしめると、中には希望だけが残っていたという。
「何かとんでもない物っぽいな…」
しかもギリシャ神話って。だったら存在しないものなのだろう。
じゃあこの鍵は何なんだ。この、“パンドラの箱”の鍵は。
貴一は本を閉じた。ごろんとそこに寝転がり、天井を見つめて笑う。
「このまま寝てしまおうか」
でもそうしたら勿体ないな。史郎と一緒にいられるのは、学校とその行き帰りだけなのに。寝ればあっという間に放課後になって、文句ばかりを言う親の元に
帰らなければいけなくなるんだ。
けれど貴一は、その意思に反してそのまま眠ってしまった。
――貴一、貴一。
かわいい子だね。
そんなお前には、これを。
“パンドラの箱”を、いつかお前に授けるとしよう―――
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