届けられた物
(参)
“これ”を君に預けるよ。
――もし私が帰って来なければ、どうか君の手からあの子に渡してあげてくれ。
貴一に、渡してあげてくれ。
「あら、今日もいい天気」
史郎の母親の名を咲子という。咲子は
いそいそと庭に出て、洗濯物を干し始めた。
けれど人の声が聞こえず、ただ虫の声があふれているこの空間の中で何だか物寂しくなって、干そうとしている洗濯物をぎゅっと抱きしめる。ひんやりと、濡
れた洗濯物の冷たさを感じた。
「――正史さん」
やはり貴方は、帰ってきてはくれないの…?
「さぼり魔」
史郎は図書室の床で呑気に寝ている男の額を軽く叩いた。
「いったぁ…」
貴一は目を開けて体を起こす。あくびをして側に座っている史郎を見た。
「あれ、もう放課後?」
「そんなわけないだろう。今はお昼休みだよ。本を読んでて眠くなったのか?」
史郎は貴一の手元にある本を手に取って立ち上がった。
「この本、もとの棚に戻すよ」
「あぁ、ありがとう。――史郎、なぁこれどう思う?」
本を棚に戻そうとしている史郎に向かって、貴一は例の鍵を投げた。史郎は本を戻す間もなく右手で受け取る。そしてそれをまじまじと見つめた。
「西洋風の…鍵?」
金色でキラキラとした装飾品がついていて。
「――この模様、どこかで見たことあるような…?」
「本当に? 史郎が見たことあるんだったら町のどこかに――」
「いや、違う。私が持っているものと基調が似ている」
「お前が持っているもの?」
「……ああ。今はない。教室の鞄の中にあるよ。そうだ、それについて貴一に聞こうと思ってたんだ。私は西洋風のものには詳しくないし。昨晩知らない間に
机の上に置かれていた“箱”なんだが」
「箱……?」
貴一は顔をしかめた。そして立ち上がり、史郎が棚に戻そうとしていた本をもう一度手に取る。パラパラとページをめくって、とあるページで手を止めた。
「……まさかな」
貴一はそう一言つぶやくと、折角開いたページをとじて自分で本をもとに戻す。
「どうした?」
「何でも。史郎、箱がどうしたって? 教室にまずは戻ろうか」
行けども行けども、海が私を隔てていた。
帰りたい。
あの子のもとへ、帰りたい。
君のもとにも、帰りたい。
ああ1人で、君はどんなにか苦しんでいることだろう。
あんな廃れた寂しい場所で、幼くか弱い子どもと共に。
どんなにか嘆いていることだろう。
逆らわない方が良かったか。
そうすれば遠く離れたこの地に。
銃煙充ちるこの地に。
死の漂うこの地に。
やってこなくても良かったのか。
しかし代わりに君を失う。
選べない。
どうすれば良かったなど分からない。
だが私の変わらぬ思いはひとつだけ。
君のもとへ、帰りたい。
行けども行けども、海が私を隔てるけれど。
土地一番の権力を持つ須崎家で、当
主・貴志は古い写真を眺めながら嘆息を
もらした。
「何故、貴一はあの家の子と…よりによって、あの家の子と…」
友人などいくらでもいるだろう。
何故親友となるのが、あの家の子でなければならなかった。
「里中史郎…。あの子は、非常に酷
似している…」
そうつぶやきながら別の写真を見て、大事そうに手に持った。
そして、その写真にささやきかけるように言う。
「咲子――」
「バルハラに御座すか 貴方はそこに坐すか
御覧あれ 御覧あれ 遠い彼の地で御覧あれ
深く 深く 懐古せよ
我らはここに鎮座して 貴方のな――」
「母さん」
咲子は繕い物をしていた手を止めて、今し方自分を呼んだ男に笑顔を向けた。
「お帰りなさい、史郎さん。まだ日は傾いていないようですね。今日はお帰りが早いこと」
史郎は母に微笑み返して言う。
「母さんこそ、歌を歌っているなんて珍しいね。今日は気分がいいの?」
「最近は調子がとても良くて。今日はどうしたんですか。学校はもう終わったのですか」
「母さん忘れているみたいだね。木曜日はいつも昼過ぎに学校が終わるんだよ」
言われて、咲子は苦笑した。。
「そうでした。今日は木曜日なんですね」
史郎はうなずいて一旦部屋に鞄を置きに行った。そしてすぐに母の元に戻って、彼女が繕う手つきを眺める。しばらく眺めると、思い切ったようにある物を咲
子に差し出した。
「見て、この箱」
咲子は目を見張った。
「それは……」
「これ、“パンドラの箱”かもしれないと貴一は言うんだ」
「その箱は…もしかして、白い別の箱に入って…?」
咲子は咄嗟に立ち上がり、近くの引き出しへと向かった。
それを開け、愕然とする。
そこに在るはずの物が、ない。
そしてそれは、今史郎の手の上にある物と同じくらいの大きさのはず。
まさか自分の知らぬ間に、史郎の手に渡っていたなんて。
「どうしたの? 母さん」
「――何でもありません…」
咲子は微笑してごまかした。
深く 深く 懐古せよ
我らはここに鎮座して 貴方の涙を受け取ろう
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