届けられた物
(肆)
教室に戻り、例の箱を見せた史郎の顔をまじまじと見て、貴一は冗談めかした声で言う。
「これって“パンドラの箱”かもな」
「パンドラの箱?」
聞き返す史郎に、貴一はポケットから取り出した紙を渡した。
「その紙と一緒にこの鍵は俺の部屋にあった」
鍵をチャラチャラと手元で回す貴一の目は、いつの間にか真剣なものへと変わっている。
史郎は紙に書かれている字を丁寧に読み上げた。
「これは、パンドラの箱の、鍵です」
「そ、そしてこの鍵とその箱が無関係だとは思えない」
両方とも金色に光っていて、装飾品が散りばめられている。そのデザインには統一性があり、箱も鍵も基調が全く同じだ。
「この鍵がパンドラの箱の鍵なら、その箱はパンドラの箱なんだろう」
貴一はそう言って箱を手に持った。史郎が言う。
「――パンドラの箱って?」
「ああ、ギリシャ神話に出てくる箱のことだよ。人類最初の女であるパンドラが持っていた、あらゆる災厄を閉じこめた箱のことだ」
「災厄を…?」
史郎は少しぞっとするものを感じた。そんなものが存在するのだろうか、存在したとしても何故自分の元に送られてきたのだろう。そんなことを考えていた
が、鍵穴に鍵を差し込もうとしている貴一を見てそんな考えが一気に吹き飛んだ。
あわてて貴一の腕をつかんで言う。
「何をしようとしている?」
「いや、中に何か入っているみたいだから開けようかと」
「――災厄の箱なのに?」
「ははっ。本当に災厄の箱なら、俺たちの手元にあるはずがない」
それもそうだと納得しつつ、史郎は箱を取り上げた。
「史郎?」
「誰かが“パンドラの箱”だと言ったんだ。良くないものであるのは確かだろう」
予鈴が鳴った。
それまで思い思いに昼休みを過ごしていた面々が、かったるそうに席につく。貴一も自分の席に戻り、いそいそと箱を鞄の中に直す史郎の姿を眺めていた。
木曜日だということでいつもより早く家に帰り着いた史郎は、ふとささやくような歌声に気づいた。
バルハラに御座すか 貴方はそこに坐すか
御覧あれ 御覧あれ 遠い彼の地で御覧あれ
深く 深く 懐古せよ
我らはここに鎮座して 貴方の涙を受け取ろう
戦場で倒れた貴方は、神が住まう楽園にいるのですか。
どうか遠いその地で、見守っていて下さい。
どうか忘れず、見守っていて下さい。
私たちは貴方を想ってもどうすることもできないけれど。貴方の涙だけは、この手でしっかりと受け止めたい…。
戦死した者を想う歌だった。その歌声が母の声だと気づくのにはそう時間はかからず、史郎の胸に切なさがこみ上げてくる。
繰り返し繰り返し同じフレーズを何度も歌う母にたまらなくなって、史郎は咲子に何事もなかったかのように近づいた。
「母さん」
史郎に気づいた咲子は、儚げな笑顔で出迎える。
「お帰りなさい、史郎さん」
咲子の笑顔に史郎は泣きそうになった。咲子は絶対に史郎に向かって泣き言を言わない。父が死んでどれくらい経っただろう。史郎は父は生まれる前に死んだ
と聞かされていたのを思い出し、母が1人で過ごした時間を思うと何ともいたたまれない気持ちになった。
体はか弱いくせに、心は何て強い人なんだ。史郎は疑いもなくそう思う。
気が強いのではない。心が強い。史郎の父、正史がいなくとも、咲子は史郎の前でだけは絶対に泣かなかった。寂しいと、そんな言葉を漏らしたことさえもな
い。
子どもの頃には気づかなかった咲子の悲しみも、今の史郎になら容易に分かるもので。
だからと言って“泣いていい”などと言うことは、これまでの母の気持ちを踏みにじるようで言えなかった。
――父さん。
一度も会ったことがない、すでに黄泉の国の人だという父を呼ぶ。
声は届かないだろう。届いてもどうすることもできないだろう。
それでも呼ばずにはいられない。
心の中で、何度も何度も。それは母のためというよりは、史郎自身のためと言った方が正しいのかもしれない。
辛かった。
母の寂しい思いに気づいた今、母を見るのが辛かった。
自分に何ができるだろう。史郎がそんなことを模索し始めて、もう随分と経った気がする。
答えは未だ出ていない。
今はただ母の側を離れてはならないと、それだけが自分のできることだと、そう思っていた。
一旦自室に戻った史郎は、すぐに咲子の元に戻ってきた。
繕い物をする母の手。こんなにも細くて弱々しい手に自分は育てられてきたことを実感しながら、史郎は昨夜も見せたあの箱を咲子の前にそっと差し出す。
「これ、“パンドラの箱”かもしれないと貴一は言うんだ」
「それは…!」
ふいに変わった咲子の目を、史郎が見逃すはずがなかった。
咲子が立ち上がって引き出しを開け、愕然とする様子をどこか悲しげな瞳で見つめる。
「どうしたの? 母さん」
「――何でもありません…」
微笑みでごまかそうとする咲子を史郎は少し痛々しく感じ、それ以上追求するのをやめた。
家に帰り着いた貴一は、自分の部屋へと向かうために長い廊下を歩きながら、ふとある声に気づいた。
「咲子……」
父の部屋の前だった。思わず立ち止まり、そのふすまを開ける。
“咲子”とは“咲子さん”のことだろうか。史郎の母親である、あの優しい人。
「父様…?」
貴一が中にいた貴志に声をかけると、貴志は過剰な反応で貴一を振り返った。さっと手に持っていた写真を下に置く。
「貴一か。何だ、今日は早いな」
「それはこっちの台詞ですよ。写真を見ていたのですか?」
「いや、何でもない」
「“咲子”とは誰です? まさか嫌っている史郎の母親なわけ――」
貴一は貴志の顔を見て固まった。この人は意外に隠し事はできない人だと幼い頃から知っていたけど…。
思わず笑みがこぼれる。そんな顔をしていたら、肯定しているも同然だ。
「貴一…」
「咲子さんとお知り合いだったのですね。あの家をそんなに疎むのは、何か恨みでも?」
貴志の顔が引きつる。しかしやがて目を細めて、小さな声でつぶやいた。
「咲子には恨みなど、ない――」
では誰に……?
遠い遠い昔、約束を交わした。
裏切ったのは誰だろう。
憎むべきは誰だろう。
海の果てで、眠る男か。
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