遠い戦地で君を想う
(陸)
須崎正史宛てに赤紙が届いたのは、一週間後のことだった。
正史の父は言う。
「国のために死んでこい」
「嫌ですよ」
彼はきっぱりと答えた。
「私が死ぬのは、咲子のためです」
召集令に逆らうわけにはいかなかった。逆らったが最後、日本のために死ねない反逆者か、良くても臆病者の烙印を押されて蔑まれる。
赤紙が届いた3日後、正史は貴志のいない隙に須崎家本家を訪れた。咲子はすでにここにはいない。彼女は貴志が用意した家で自分を待っていることを、正史
は知っていた。
裏切られてもやはり貴志は咲子のことが好きだから、無下に扱うことはできなくて――彼はわざわざ目の届く自分の領地内に彼女の家を用意したのだ。
その咲子が待つ家に向かう前に正史は本家を訪れ、貴志と咲子の子を世話する乳母に近づいた。乳母も事情を知らぬわけではないので対応に困ったが、それで
も正史だって主筋。彼女は正史に促されるがまま抱いていた赤子を差し出した。
「貴一…」
正史は自分の甥っ子を抱いて、優しく優しく声をかける。
「貴一、貴一。可愛い子だね」
何も知らない無垢な赤子は、自分の名が呼ばれるたびに喜んだ。正史は貴一の顔を覗き込み、もう一度繰り返し言う。
「貴一、貴一。可愛い子だね」
そんなお前には、これを。
金色の箱を取り出して、貴一の目の前で鍵を閉める。
「“パンドラの箱”を…」
いつかお前に、授けるとしよう――。
それから正史は咲子の家へと向かった。
「咲子さん」
「正史さん…待っていました」
咲子は泣きそうに微笑んだ。切なさがこみ上げてくるようなその笑顔を正史は真正面から受け止め、そっと彼女を抱きしめる。
「約束します、咲子さん…」
ゆっくりと、意志を決する。
「私はきっと帰ってきます」
ぽろっと、咲子の目から涙がこぼれ落ちた。
「――君のもとに」
私は必ず帰ってくるよ。
「本当に…?」
正史はしっかりと頷いた。咲子は彼の胸に顔をうずめる。
「本当に、帰ってきて下さいますね…?」
「帰ってくる。これはその証に」
正史はあの箱を、咲子の手の上に乗せた。
「これを君に預けるよ」
「……?」
「もしも私が帰ってこなければ、君の手からあの子に渡してあげてくれ」
「そんなっ」
「そんな顔はしないで。言っただろう? 帰ってくる証だと。私は勿論君からこれを返して貰うために、帰ってくるつもりだよ」
咲子はその綺麗な西洋の箱を抱き、何度も何度も頷いた。
カラカラと音がする。
何かが入っている“パンドラの箱”。
正史は、鍵を咲子に渡すことはなかった。
遠い遠い海の果て。
南の島に連れてこられた正史は、死臭と銃煙に顔をしかめる。
「国のために死のう」
正史が所属する隊の隊長はそう言った。
誰もが口にする言葉。
“国のために死ぬ”
一体その覚悟は、いつから植え付けられたのか。
そう思えない自分は、どこかおかしいのだろうか。
懐にある鍵を誰にも見られないようにこっそり握って、正史は息を吐く。
――帰るんだ。
ここでは死ねない。
それでも海は壮大で。
大きな檻に閉じこめられてる気さえした。
「待っている人がいるのか」
ある日海を眺めていた正史に、隊長が声をかけた。正史は答える。
「―――妻が、待っています」
「いい女か」
「綺麗な、人です」
「帰りたいか」
正史はしっかりと頷いた。
「約束しました。“必ず帰る”と。妻と、もうすぐ生まれる私の子どものために」
……そして。
“パンドラの箱”を渡さなければ。
あの子に。
――貴志。
私は正直お前が憎いよ。
貴一は、何も知らずに育つだろう。
お前はきっと、あの子には何も言わずに育てるのだろう。
お前はすぐに後妻を娶って、その人に貴一を育てさせるんだ。
それはどんなに、咲子を苦しめることだろう。
そして私をここに送って、咲子を1人にした。
1人で子を産ませるなど、お前も残酷なことをする。
何もかもを咲子から奪って、それでも自分のすぐ手の届く場所に留め置いて。
愛しているのか、憎んでいるのか。
違う。
――悪いのは私だ。
私が咲子を愛さなければ、こんなことにはならなかった。
須崎家の本家で咲子は幸せに暮らして、我が子と離されることもなく。
ただ平和な暮らしを送っていたはずだ。
けれどこれから君は1人で子どもを産んで、育てて、そしてひたすら私の帰りを待ちわびる。本家からは白い目で見られ、当然あの家に近づくことは叶わな
い。
顔も見れないもう一人のわが子のことも日々案じて。
なんて悲しく、不条理な日々を送るのだろう。
憎い…。
自分が、貴志が、戦争が。
そして咲子の愛も知らずに生きるであろう、
貴一が。
Copyright (c) 2006 kougami All rights reserved.