待ちわびた時

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  (捌)  

 貴志の耳にも、奇妙な外国人が訪ねてきたという情報が入った。
 「それで、そいつはどこに?」
 仕事を終えて家に帰り着いた貴志は、彼を出迎えたという使用人に訊く。
 「―――素性の知れない方を家にあげることはできないと申し上げましたら、あっさりと納得したご様子で。そのまま引き返してしまわれました」
 「そうか」
 「あ…あの、いけませんでしたか? 旦那様のお知り合いでしたか…?」
 「いや、知らない。追い返すのは正しかった。ご苦労」
 貴志は自分の部屋に戻る前に貴一の部屋の前で立ち止まった。
 時計を見て、すでに彼が家にいる時間だということを確認する。
 「貴一、いるか」
 ノックもせずにそう呼びかけると、返事もなく扉が開いた。
 「………何ですか」
 不機嫌そうな顔で貴一が現れる。
 「珍しいですね、使用人を通して呼びつけるわけでもなく、貴方がこうして俺を直接訪ねるとは」
 年を重ねるにつれて年々扱いにくくなっていく自分の息子に向かって、貴志はため息をついた。
 「自分の部屋に戻るついでだ」
 「そうですか。それで何の御用でしょう」
 「お前を今日、外国人が訪ねて来たそうだが心当たりはあるか?」
 「…外国人?」
 「そう、アメリカ人ではないそうだ。そうだな、容姿の特徴を聞く限りでは南方のアジア系――」
 貴志ははっとして黙り込む。
 「父様?」
 「いや、何でもない」
 「?」
 訝しむ貴一を余所に、貴志は自分の部屋へと戻っていった。



 開けるか、開けざるべきか。

 史郎は自分の部屋で横になりながら、箱を振った。
 カラカラと音が響くのは相変わらず。中身が気にならないと言えばそれは嘘になる。
 本当は気になって仕方がない。
 でも誰かが“パンドラの箱”だと言った。
 それを貴一は“災厄の箱”だと言った。
 「開けるか、それとも――」
 「史郎さん、いますか」
 声がして史郎はさっと体を起こした。
 「はい」
 ふすまの向こうから母の弱々しい声が聞こえる。史郎はすぐに立ち上がってふすまを開けた。
 「どうしたの? 母さん。顔色が悪いよ。早く布団に横になって」
 「すみません…それで、どうしても晩ご飯の支度ができなくて――」
 「構わないから。ほら、廊下にいたら体を冷やす」
 史郎は咲子の体を支えて布団が布かれてある部屋まで連れて行った。すぐに体調を崩す咲子のために、常時布団は布かれたままだ。
 「すみません…」
 「気にしないでって。お腹空いてない? おかゆでも作ろうか」
 「いいえ…」
 気がつけば咲子は目を閉じて寝息を立てていた。
 余程疲れていたのだろう。やはり自分は大学に行けないと再認識する。
 咲子の体にきちんと布団をかけ直してあげたところで、玄関から声が聞こえてきた。

 「誰カ、居マスカ」

 ―――何の声だ…?
 「誰カ」
 聞いたことのない発音の日本語に戸惑いながら、史郎は表に出てみた。
 するとそこにいたのは、やはり見たことがない容姿をした人間で。
 「……?」
 彼は史郎を見ると、足早に近づいてその肩を握った。
 「探シタ!」
 「え…?」
 「探シタ、何処二居タ?」
 「誰…?」
 興奮した彼は、史郎をじっと見ると肩から手を下ろして言う。
 「違ウ?」
 「貴方は誰ですか?」
 彼は首を振った。
 「オ前ハ誰ダ」
 「???」
 ―――どうしよう。私の日本語が通じていないのか。
 男の方も会話がいまいちかみ合わないことに気づいたのか、パッと話を切り替える。
 「一緒二、探シテ」
 何を。――そう問いかける暇もなく、史郎は男に引っ張られていった。



 ………咲子さん。

 あぁ、懐かしい声がする。
 何よりも恋しい声がする。

 咲子さん。
 私は、君にたくさんの苦労をかけてしまったようだね。

 いいえ、いいえ。
 苦労だなどと思ったことはありません。
 私は毎日が幸せでした。
 貴方の忘れ形見である史郎も、本当にいい青年へと成長してくれました。

 でも君はこうして体を壊して。
 大変な毎日を送っていたのは事実じゃないか。

 ―――どんなに大変な毎日でも。
 貴方が帰ってくると信じていたからやって来れた。
 何故帰ってきてくれなかったのですか。
 私はずっと信じていました。
 ずっと待っていました。

 どうして帰れただろう。
 この身で、どうして君の前に姿を現すことができただろう。
 君を抱きしめることさえも叶わぬ身で。


 正史さん。
 私は貴方がどんな身であっても。
 ――会えぬ苦しみに比べれば。


 咲子は目を覚ました。
 しんとした家の中、史郎が居ないことを感じ取る。
 そのままもう一度目を閉じた。
 そして、かつて言われた言葉を思い出す。

 “例えこの身が朽ち果てたとしても”
 銃で撃たれ、戦火で燃え尽きたとしても。

 “私は君のもとに帰ろう”

 そうして共に暮らそう。
 私たちの子どもを、2人の手で育てよう。
 君のもう一人の子どもも、2人で遠くから見守ろう。


 「約束を、しただろう…?」
 優しい声が降ってきた。
 咲子は目を開けて体を起こし、辺りを見回す。
 「―――さん…?」
 「約束を、しただろう」
 姿も見えずただ聞こえるだけのその声に、咲子は頷いて返した。
 「正史さん…?」

 「長い長い、旅だった」

 途方もなく、果てしなく。
 願い叶う日はいつの日か――君に見えるのはいつの日か。
 指折り数えて、それを何度繰り返したか分からない。
 長い長い、月日だった。

 長い長い、悪夢だった。
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