パンドラの箱

早春

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 そこはとても近寄りがたく――。



 有名な家があった。
 “須崎”の姓を持つ一族。
 この土地に住む者は、決して逆らってはならないと言われていた。

 「でも今の当主の貴志さんは大分“いい人”のようだけど。史郎ちゃん、あんまりあの家の方へ行っては駄目よ」
 そう近所の人に諭された史郎は大人しく頷いた。反論しようかとも思ったがそれもしない。彼女は好意で言ってくれているのだから、とそれを無下にするよう なことはしない。
 史郎は今年12歳――それにしてはあまりにも大人びて物わかりのいい子どもだった。
 戦後間もないこのご時世、母親と2人暮らしである彼は、大人びてでもいなければやっていけない。
 史郎はいつものように近所の人たちから野菜を分けてもらうと、一目散に自分の家へと走った。
 「お母さん」
 縁側で筍を切って水に浸していた母親に、史郎は野菜を差し出す。
 「ありがとう、史郎さん。皆さんにもきちんとお礼をしなくてはなりませんね」
 「うん、僕もいっぱいお礼言ったよ。……ねえお母さん。あの家の――」
 「何ですか?」
 「須崎の家の人たちは、悪い人じゃないんだよね?」
 史郎の母親――咲子はにっこりと微笑んだ。
 「勿論。皆良い人たちばかりですよ。この土地を守って下さっているんですから」
 史郎はほっと息を吐く。彼にとっては母親が全てで、母と違って悪口を並べる近所の人たちの言葉がどうしても信じられなかった。
 須崎の家。高台に見える大きな屋敷。
 なんとなく近寄りがたくはあるけれど、史郎に畏怖の感情はなかった。



 「貴志様!」
 屋敷内であわただしく自分を呼ぶ声。それと共に自室をノックされ、貴志は仕事をしていた机を離れて扉を開けた。
 「どうした?」
 「貴一様がどこにもいないんです…っ」
 「――貴一が?」
 「はい、つい先程まではお休みになられていたはずなんですが――」
 貴志はため息を吐いた。
 何もこれは初めてのことではない。あの子は大人しく寝させられている自分に不満なのだ。
 貴志は窓の外を見た。日が傾いている。
 「数人やって探して来てくれ。夜になる前には見つけてくれよ」


 「こほっ……こほっ……はぁ――」
 貴一は壁に手をついてしゃがみ込んだ。
 「のど…渇いた……」
 でも飲み物なんてどこにもない。しかし家に戻ろうという考えにも至らなかった。
 貴一はついさっき自分が抜け出してきた家をふり返る。もう抜け出してきて大分経つが、高台にある屋敷はここからでもよく見えた。
 貴一はぐっと力を入れて立ち上がった。手を壁から離す。自分の手についたぼろぼろの塀の屑を払って歩き始める。
 「何してんだろ、俺……」
 きちんと分かっていた、困らせるだけだということ。
 こんなことをしても何もならないということ。
 それでもずっと大人しく屋敷の中にいては、自分だけが取り残されているような気がして嫌だった。
 実際もう2年も学校に行っていない。本当なら今年から中学生。勉強は家まで教えに来てくれる人がいるが、やっぱり学校に行きたい。友だちと遊びたい。で もそれを許してもらえない。
 貴一は咳が出てくるのを我慢しようとした。気管支が丈夫でない貴一は度々咳をする。咳さえしなければ治るような気がすると、馬鹿みたいに考えているの だ。
 でも我慢しても我慢しても、苦しくなるだけ。
 「―――っ」
 頭がくらくらする。

 「大丈夫!?」

 突然貴一の耳に声が聞こえてきた。
 薄暗い中その声の方を見る。
 貴一と同じ年頃の人間が、駆け寄ってきて貴一を支えた。
 「大丈夫…?」
 「誰…?」
 自分に微笑みかける少年――史郎を見て、貴一はどこか懐かしいような感覚を覚えた。



 昼にもらった野菜のお礼にと筍を近所の人たちに届けていた史郎は、その帰り道に自分と同じ年頃の少年がふらふらと歩いているのを見つけた。
 「………?」
 日はもうすぐ沈みきってしまう頃でその姿はよく見えない。
 だけど苦しそうにしているのはよく分かる。背中をまるめ、息をするのも我慢しているようなその姿が、とても頼りなく見えた。
 史郎にはそれだけで十分だった。誰かなんて関係ない。助けてあげなければ、という衝動に駆られる。きっと咲子がこの場にいてもそうしただろう。
 史郎はその少年に駆け寄り、背後から声をかけた。
 「大丈夫!?」
 少年――貴一は史郎をふり返る。
 史郎は貴一に更に近づいて支えた。
 「大丈夫…?」
 もう一度問う。
 「誰…?」
 弱々しい声が返ってきた。声がかすれている。喉がカラカラなのか。
 「もう少し歩ける? 僕の家すぐそこなんだ」
 史郎はにっこりと微笑んだ。貴一はその笑顔にほっとして、我慢していた咳があふれ出てくる。史郎はあわてて背中をさすってあげた。膝を折ってしゃがみ込 む貴一の背中を、落ち着くまでずっと。
 しばらくして貴一は顔を上げる。
 「……ありがとう」
 「いいよ。歩けないならここで待ってて。水を持ってくる」
 「大丈夫…。自分の足で行く」
 「じゃあ僕の肩につかまって。ゆっくり行こう」



 史郎が自分の速度に合わせてくれ、貴一はどこか安心を感じながら歩いていた。程なく日が沈みきり、辺りが闇に包まれる。街灯は無い。この辺りはまだ普及 していないのだ。
 「ほら、あそこ」
 史郎は指を指した。もともと寂しい集落ではあるが、更にそこより離れた場所にある家。家を囲むのは草むらで、裏には竹林が広がっている。
 まるで追いやられているようではないか、――貴一は思った。
 ふと気づけば咲子が玄関先で帰りの遅い史郎を待っていた。出たり入ったり、探しに行こうか迷ったり、顔をきょろきょろとさせながら落ち着きもなく立って いる。
 それが分かって史郎は手を挙げた。
 「お母さん!」
 咲子も史郎の声に気づく。
 「史郎さん」
 そして駆け寄ってきた。史郎が支えるように一緒に歩いてきた少年が気になったからだ。
 史郎の代わりに支えようとして、その顔を見る。

 “どちら様?”

 ――そう言おうとして、発することができなかった。
 「………た」
 “貴一”――その言葉を飲み込む。

 ああ、何の因果だろう。

 どうして今、二度と会えないと思っていた息子が、目の前にいるのだろう。

 「お母さん?」
 史郎に袖を引かれ、咲子ははっと我に返った。
 「……とりあえず、家に入って休みましょう」
 泣きそうになるのを必死に堪え、貴一を抱くように支えて家の中に進んだ。



 貴一は布団の上に寝かされた。
 大人しく寝させられているのが嫌で逃げ出したはずなのに、何故だか今は嫌じゃない。
 貴一はぎゅっと着布団を握る。いつもの自分の布団のにおいじゃない。だけど落ち着く。――涙が出そうな程、今、安心している。
 「タオルを持ってきたよ」
 ふすまを開けて史郎が入ってきた。史郎は水で濡らしたタオルを貴一の額に載せる。
 「熱が少しあるみたいってお母さんが言ってた」
 「……ありがとう」
 「いいよ。えーと……」
 「貴一、って言うんだ」
 「貴一? ――須崎の家の俺の1つ上の息子さんも、確かそんな名前だった気がする」
 貴一は頷いた。
 「須崎貴一って……言うんだ」
 貴一は目を伏せた。本当は言いたくなかった。須崎を知らない者などいない。言えば家に連れて帰られる。
 史郎を一瞥する。史郎は驚いているようだったが、すぐににっこりと微笑んだ。
 「僕は里中史郎。よろしく、貴一さん」
 「貴一でいい」
 「だって年上だから」
 「貴一、がいい」
 「……分かった。よろしくね、貴一」
 そこに咲子がやって来た。
 「具合はどうですか?」
 咲子が持ってきた水の入った桶を史郎はすぐに受け取り、貴一の頭の側に置いた。そして貴一の額の上にある手ぬぐいを取ってもう一度水で冷やして絞る。
 起きあがろうとした貴一を手伝うように咲子は背に手を添えた。
 「あの……」
 「どうしました?」
 「――ありがとうございます」
 「いいえ。それよりどうしたんです? その様子では家を抜け出して来たんでしょう。皆さん心配していると思いますよ。――須崎の家の皆さんが」
 「……俺…」
 不意に涙が流れてきた。
 どうしたというのだろう。いつも泣いたりなんてしないのに。史郎に会ってから、この家に来てから、泣きたくて仕方がなくて。
 咲子の顔を見ていたら、ついに我慢することもできなくなって。
 咲子はすぐに貴一を抱きしめた。史郎も黙ってその様子を見守る。手に握っていた手ぬぐいはそっと桶の中に戻した。
 「俺……外に、出たくて…」
 閉じこめられていたわけじゃないけれど。
 「体が…弱い所為で、何も…できない…!」
 咲子はいっそう強く抱きしめる。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい、貴一。

 ――丈夫に生んであげられなくて、ごめんなさい…。

 決して声には出せない、心からの謝罪。
 史郎はぎゅっと貴一の手を握った。熱い。
 「病気なら、ちゃんと治さなきゃ」
 「でも……!」
 「ちゃんと治そうよ」
 「いつ治るの…? いつまで我慢すればいい?」
 「治るよ!」
 史郎は言い切る。
 「いつか、なんて分からないけど、貴一が頑張ったらきっと治るよ!」
 「………」
 それは何人にも言われてきた言葉だ。だけど貴一は今まで、“そんなの気休めだ”と聞く耳を持たなかった。きっと治るから、――本当に治るかも分からない のに。そんな不確かなことのために自分はいろいろと我慢しなくてはならないなんて。
 だけど不思議だ。史郎の言葉は、素直に自分の中に入ってくる。
 今日初めて会ったのに。

 どうして?

 ――分かってる。医者みたいに形式的な言葉じゃない。史郎の言葉が、真っ直ぐに自分を思ってくれているから。
 だから自分も、真剣に思える。
 「……分かった」
 咲子はほっとした顔を見せた。貴一は更に言う。
 「じゃあ…治ったら、俺と遊んでよ、史郎」
 史郎はきょとんとした目をしたが、すぐに笑った。
 「勿論。僕たちもう友だちだから」
 “病気を治すため”――そんなあまりぴんとしたものじゃなく、“史郎と遊ぶため”だったら、頑張れるような気がする。
 「ありがとう。……俺、家に帰るよ」



 史郎は貴一を送って須崎家のすぐ近くまで来た。貴一の体調が回復するまで待ったおかげで結構時間も遅くなってしまっている。使用人たちも必死に外を探し 回っているだろう。
 まるでかくれんぼをして遊ぶようにその目をかいくぐりながら、2人はここまでやって来た。
 咲子は来なかった。子どもたちだけで夜に外に出すことには抵抗があったが、自分の家に貴一がいると須崎家に連絡することなんて勿論できず、かと言って自 分が須崎家に赴くこともできず、史郎に託した。
 史郎は須崎家のこんなに近くに来たのは初めてだ。敷地の中はあまり見えないが、高い塀を見上げて感嘆の息を漏らす。
 「どうやって抜け出して来たの?」
 こんなに高いのに。
 「裏に子どもしか通れないぐらいの抜け道があるんだ」
 ここだよ、と貴一は史郎を連れてきた。
 そして中に入ろうとして動きを止める。名残惜しそうに史郎をふり返った。
 「本当に、ありがとう」
 苦しそうにしていたのを助けてくれたことは勿論。
 「友だちになってくれて、ありがとう」
 「変なの。友だちになってお礼を言うなんて」
 「俺……学校行ってないから、あんまりいなくて」
 「大丈夫、すぐに行けるようになるよ」
 「うん、来年…! 来年俺は学校に行く! 中学校に入る!」
 「じゃあ一緒に学校に行けるね」
 貴一は泣きそうな顔で微笑んだ。
 「1年後に、会おう」
 「うん。――頑張って」
 貴一はゆっくりと中へ入る。
 史郎はただじっとその後ろ姿を見守っていた。
 そして思う。須崎の家の人は、悪い人でも、恐い人でもなかった。

 「やっぱりお母さんの言った通りだったね」
 家に帰って咲子に自分が思ったことを話すと、咲子は頷いた。
 「そうでしょう?」
 「でも……貴一を見て、悲しそうにしてたのはどうして?」
 「…………」
 「また同じ顔してる」
 咲子は史郎を抱きしめた。愛しい自分の息子。それは貴一も同じ。なのにここにはいない。自由に抱きしめてあげられない。辛い思いをしているのに、側にい てあげられない。

 咲子の悔しい思いもこの時の史郎は知る由もなく。
 全てを知るのは、数年先のこと――。



 「貴一、どこへ行っていた?」
 自分から帰ってくるなんて珍しい、と貴志は横になっている息子の頭を撫でた。
 「――どこにも」
 「今回は上手く隠れたものだな。皆見つけられなかったと言っていたぞ」
 それでも居場所を言おうとしない貴一に、貴志はため息を吐く。
 「まあいい。あまり遊び回るな。治るものも治らなくなる」
 「お父さん、俺もう抜け出さない」
 「――そうか」
 「そうしたら、来年中学校に行ける?」
 貴志は微笑んだ。そしてもう一度頭を撫でる。
 「ああ、行けるだろう」
 そう答えて立ち上がった。窓の側に近づき、外を眺め、窓を開ける。
 灯籠で照らされた夜桜がはっきりと見えた。
 「春だなぁ…貴一」
 「うん」
 「来年はお前の立派な学生服が拝めるかな」

 風が吹いた。
 花びらが、貴一のもとへと運ばれる。
 「――春のにおいがする…」



 ああ、それはとても。
 今日出会ったあの2人の、優しい香りにとても似ている。
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