パンドラの箱
(序)
――その手で開けてみればいい。
“パンドラの箱”を、お前は持っているんだろう?
1.
「ああ、いい天気だな」
国語の時間、先生は唐突にそうつぶやいた。もうすぐ定年を迎えるその先生は、どこか懐かしそうに窓の外を眺めている。
俺もつられて窓の外を見てみると、わずかしかない白い雲がどんどん押し流されていた。
風が強い所為だ。――でも、そのおかげで窓際に座っている俺はとても気持ち良くて、いつもは耳につく蝉の声も気にならない。
「いい天気、ですね…」
思わず先生に相づちを打つと、側にいた先生はにっこりと笑った。
その先生が倒れたのは、それから五年後――俺が高校三年生の夏休みのときだった。
俺は中学の頃から親友の冴木と一緒に
先生のお見舞いに行くことにした。
二人で花を買って、先生が好きだった静岡茶も買った。
先生の入院している病院は俺の家の近くで、徒歩十分くらいの場所。日差しが強くて道路には陽炎ができていた。そんな中を俺たちは汗をかきながら歩いてい
く。
「花、病院行く前にしおれちゃうんじゃねぇの?」
冴木が言った。実際、それくらい暑かった。
「そうかもね。だって今日の最高気温、三十七度だってニュースで言ってたし」
「三十七度!? いやいや、もっと高そうだぜ」
「日本は湿気があるからなぁ」
蝉の声がそこら中から聞こえてくる。何だかイライラして、十分しかない道のりも遠く感じた。
――先生はどうして倒れたんだっけ?
あぁ、確か日射病だ。道ばたでいきなり倒れたんだ。俺もその時ちょうど近くを通りかかっていて、救急車が来たりとかそんな大騒ぎになったんでよく覚えて
いる。
もうすぐ先生の倒れた場所。そう、そこの角を曲がったところ。
「なぁ、冴木。あそこで先生が――」
キキーッ!!!!
―――― 一瞬、何が起きたか分からなかった。
何故さっきまで横に並んでいた冴木の姿が、今は見えないんだろう。
理解するのに時間がかかった。
突然聞こえてきた大きくて高い音。それと共に自分の横を一瞬で通り過ぎて、冴木の体を吹っ飛ばしてしまったもの。
冴木が持っていた花束も宙に舞い、花びらがひらひらと踊りながら落ちて来た。
「事故だ! 誰かが轢かれたぞっ!」
どこからか、そんな声が聞こえてきた。
「誰か救急車を!」
……そうだ、救急車を呼ばなきゃ。
ケータイはどこに入れといたんだっけ? バッグの中? 違う、ポケット? ――そこも違う。
思い出した、机の上に置きっぱなしのままだ。
役立たず。普段どうでもいいようなメールのやりとりしかしてないのに、こんな肝心なときに手元にないなんて。
俺はそんな自分を呪いながらも、横たわる冴木の体にゆっくりと近づいた。
「君、この子の友だちかい?」
そう声をかけられ、はっとして辺りを見渡した。いつの間にかたくさんの見物人、もとい野次馬が周囲を取り囲んでいる。
「友だち、です……」
俺の声は震えていた。震えていたくせに妙に現実感はなかった。
――救急車はまだだろうか。
でも例え今すぐ来たとしても、すでに息もなく、見たこともないような大量の血を流している冴木が助かるとは到底思えない。
俺は冴木から目線を外した。
俺ならこんな姿、友だちになんて見られたくないと思ったから。
『パンドラの箱を開けるから』
声が聞こえた。知らない青年の声だった。
『パンドラの箱を開けるから、こんなことになったんだ……!!!』
パンドラの箱?
何、それ。ギリシャ神話の話だろ?
第一俺はそんな物、持ってもいなければ開けた覚えもない。
関係ない。今この現実には、関係ない。
気づけばいつの間にか救急車が到着していて、冴木はその中に運び込まれようとしていた。
警察の人たちも到着し、俺の存在に気づくと近寄ってきて言う。
「あの子の家に連絡して欲しいんだけど、できる?」
俺は一度頷いたあと、首を振った。
「ケータイ…家に忘れて……」
ケータイになら、冴木の家電の番号だって登録してたのに。
「そう。じゃあ事故の状況を教えて欲しい。君はこの事故、目撃したんだよね?」
「……何が…何だか…。隣を歩いていたはずなのに、いつの間にかいなくなってて……」
「どこを歩いていたの?」
「どこって……」
――開けなきゃ良かったのに。
開けなければ、こんなことにはならなかった。
“パンドラの箱”なんて、さっさと捨ててしまえば良かったんだ。
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