歪んだ思い
(壱壱)
6.
「箱をお開けになられましたか」
藤野の問に、貴一は首を振って返した。
「開けたかったけど、史郎が嫌だって言うから。“パンドラの箱”だと、“良くないもの”だと誰かが言うのだから――開けない方がいいんじゃないかって。
でもそうか、俺に鍵を届けたのがお前なら、史郎に箱を届けたのもお前なんだろ」
「―――はい」
「一体何がしたかったんだ?」
藤野は答えるのを躊躇った。まさかまだ開けていないとは思わなかったからだ。開けていれば、2人は当惑し、親たちを不審に思っているかもしれない。自分
だったら彼らに彼らの親たちのことについて何か教えてさしあげられるのでは、何か助けになることがあるのでは、そう思ってこうして貴一を訪ねに来た。
でもそうか、まだ開けていない――だったらそのまま、開けないままでいるのが幸せかもしれない。
せっかく正史もここへ戻ってきた。貴志にはすでに今の妻がある。貴志には本家で、正史は咲子の待つあの家で、何事もなく暮らし始めるのがいちばんいい。
正史がその選択をすることを、願うしかない。
貴一は黙り込む藤野に言う。
「なあ、あれには何が入っている?」
「貴一!」
貴一と藤野は声がした方を見た。
「史郎」
史郎と外国人の男の2人が、貴一と藤野に駆け寄る。
貴一は訝しげに見たこともない男を見つめた。
「誰…? もしかして俺を訪ねに来た外国人って貴方のこと?」
「……貴一!? 貴一ナノカ!?」
「ああ、やっぱり」
「貴一ヲ探シテイタ!」
男は貴一の腕を掴んだ。史郎は頭が混乱し、確認するように呟く。
「今、私たちは父を探しているのでは…?」
「ソウ! 貴一ヲ探シテイタ正史ヲ探シテイル!」
「ちょっと待って下さい、何故私の父が貴一を?」
「史郎っ。お前の親父さん生きてるのか!?」
そこまで言って、3人は黙った。
訳が分からない。一体何がどうつながっているのだろう。
必死に頭の中の整理をしている3人に、藤野はゆっくりと語りかけるように言う。
「貴一様、史郎様。そして――貴方ですね? 正史様を連れてきて下さった方は」
「ハイセ、ダ。私ノ村デ暮ラシテイタ正史ガヨウヤク日本ニ帰ル都合ガツイテ、突然消エタ。デモ正史ハ右腕ヲ失ッテイルシ、右足モ義足ダ。ダカラ私ハ心配
ニナッテ、アワテテ正史ヲ追ッテコノ日本マデ一緒ニ来タ」
それでも正史は、いつの間にか港から1人で消えていた。
正史がどこに行くかなんてことは、正史から聞いていた名前しか手がかりがなく、それを頼りにこの地までやって来た。
初めはあいつがいつも話していた“須崎貴一”を訪ねた。
だけど貴一はいなかったから、今度は“咲子”の家を探した。
咲子の家には正史そっくりの史郎がいて、今度は史郎と一緒に正史を探し始めた。
史郎は言う。
「それでも分からないんです。何故父は貴一を?」
本当は、父が貴一と何らかの関係があるのでは、ということはすでに分かっていた。ハイセが言った父の名前――須崎正史という名が本当なのであれば、当然
のことだ。
それでも腑に落ちないのは、何故母よりも貴一を?
母は誰よりも父を待っていた。父の帰りを待っていた。泣き言1つ言わず、ひたすらに待っていた。
藤野は逡巡し、それでも意を決して口を開く。
「私はきっと、お二人に話せることがたくさんあります。しかし今の状態で、私の口から語ることは何もありません」
パンドラの箱を開けていない。まだ、2人は何も知らないのだ。
だったら勝手に自分が話し始めるわけにはいかない。
――そもそも藤野は、話すこと自体に抵抗があった。
「正史様を探して下さい。貴一様、私は貴方に話したいことがあってここまで来ました」
「でも俺が箱を開けてなかったから、話すこともなくなったんだろう」
藤野は頷く。
「しかし安堵もしています。お二人にお願いです。箱は開けないで下さい。開けぬまま、正史様にお会い下さい。貴志様や咲子様にも」
正史に貴一に届けろと頼まれた箱。
藤野はそれを1人で開けるよりは2人で開ける方がましだろうと、鍵と箱を貴一と史郎とに別々に届けた。
未だ開けられていないのは幸いか。
でも開けないままでは、正史の思いは成就しない。
「お願いです。箱を開けずに、正史様にお会い下さい」
「恨んでいるだろう、正史」
震える貴志の声。死んだと思っていた従兄を目の前に、自分が死地へと送った男を目の前に、平常心が保てるわけもなかった。片腕をなくした姿はとても痛々
しく、貴志は眉をひそめる。
正史はお茶を一口すすった。
「恨んでいるかそうでないかと言われれば、恨んでいる」
貴志の体が揺れた。正史の話は続く。
「お前は、残酷なことをした。私にではない。咲子に、だ」
「――分かっている」
「でもそれも仕方がないことだろう。お前も、私を恨んでいるはずだ」
「…………それでも、私はお前を戦地に送った後、心に決めていた。もしもお前が戻ってきたら、その時は潔く2人の仲を認めると」
「下らないな、そんなこと」
冷ややかに言い放った正史の目を、貴志は食い入るように見つめた。まさか“下らない”と一蹴されるとは露程も思っておらず、その真意も貴志には分からな
かったからだ。
ただ黙って、正史の次の言葉を待つ。
「下らない。そうだろう? 私たちの仲をお前に認めてもらうなど、そんな必要はない」
認められないことだと初めから自覚していた。認めてもらわずとも2人で――いや、生まれる子どもと3人で生きていこうとすでに誓っていた。
だから認めるか認めないかは、さしたる問題ではない。
「でも、子どもの話は別だ」
正史の言葉に、史郎ははっとした。
「貴一のことか…?」
「ああ、そうだ。貴志、お前も咲子を愛した男だ。咲子がどんな女性かぐらい分かっているだろう? 彼女はとても愛情深い人。自分が生んだ子どもにだっ
て、どれ程の愛情を抱いていることか」
冷たくなっていく声。
貴志は思わず正史から視線をそらした。
「なあ、貴志」
「正史――」
「考えたことがあるか? 愛しい我が子に、自分の存在を、自分が母だという事実を知ってもらえないなど、それがどんなに咲子にとって悲しいことなのか
――考えたことが、あるか」
「―――っ」
「正直憎いよ、お前が。でもそれ以上に私は、
貴一が憎い」
――貴一、貴一。
可愛い子だね。
そんな君にはパンドラの箱を授けよう。
どうか忘れないで欲しい。
お前の母の存在を、忘れないであげて欲しい。
私の所為で、お前たちは離ればなれになるけれど。
お前の母は、お前のことをずっと愛しているから。
忘れないで欲しい。
お前の幸せを願う1人の女性のこと。
きっと知らずに生きるだろう。
忘れないことなど無理だろう。
それでも願ってしまうんだ。
――ああ。
きっとこれは、自分勝手な願望。
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