歪んだ思い

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  (壱参)  

 いつもいつも、遠くを見ているんだね。
 そんなに帰りたい?
 待ってくれているはずの人は、いないかもしれないよ。

 ハイセ。
 咲子は私を待っているよ。
 子どもと一緒に待ってくれているよ。
 ああ――でも、そうだな。
 もしかしたら彼女は、私を恨んでいるかもしれないな…。



 銃煙と死臭が満ちる。
 その中を生き抜いて、生き抜いて。
 今一度日本に帰るために。

 『君のもとに、私は必ず帰ってくるよ』

 その約束を、果たすために。

 でも不安はいつだって心の中にあった。
 彼女はきっと、辛い思いをしているだろう。
 辛い思いをしているのは私の所為だ。
 彼女は私を、待っていないかもしれない。
 憎んでいるかもしれない。

 ――違う、そんなことはない。

 彼女は私を待っている。
 私が帰ってくると信じて待っている。
 でも苦しめているのは私だけじゃない。
 皆、皆、彼女を苦しめる。

 自分がとても許せなかった。
 その代わり自分以上に許せないものがないと、心が折れて、そこで死んでしまいそうだった。

 ――貴志が憎い。
 貴一が、憎い。


 「貴一と、史郎が、親友――」
 “親友”という響き。
 なんて嘘くさく、儚い響き。
 「私は許さないよ、史郎」
 よりによって貴一と親友だなんて。

 どうせ私と貴志みたいに、いつかひび割れてしまうのに。

 正史は歩いていた。
 義足で、とても軽快とは言えない足取りで、前へと進む。
 ぎゅっと、手に握っている箱の感触を確かめる。
 今、確かに自分の手にあるもの。
 この中身を、貴一に見せたい。
 見せてあげたい。
 どうせ誰も彼もが口を閉ざしてきたんだ。
 そしてこれからも、私が言わなければ、誰も言いやしない。
 「咲子、もうすぐだ」

 もうすぐ、君の子どもが君の所へ帰ってくる。



 貴一と史郎とハイセの3人は、史郎の家へと向かっていた。
 「案外お前の親父さん、今はお前んちにいるかもな」
 貴一が言った。
 「そして咲子さんと一緒に、ゆっくりとお茶を飲んでいるんだ」
 静かな一時。
 ゆっくりと流れる時間。
 再会が、そんな風に幸せな時間になるといい。
 史郎もそれを想像し、微笑む。
 「ああ。そうだったらいいな」
 帰ってきた父親。
 これからは、母の傍には父がいる。
 こっそりと寂しい顔をする母を、もう、見なくても済むだろう。

 コッ コッ

 ふとハイセが、足音とは違う、足音よりも少し高めに響く音に気づいた。
 聞き覚えのあるこの音。
 ――義足の音。
 「正史…?」
 ハイセの前を歩いていた2人は立ち止まり、ハイセを振り返る。
 ハイセは2人より更に前方を指差した。

 「史郎、オ前ノ父親ダ」

 ドクンと、史郎の心臓が脈を打つ。
 ゆっくりと指差す方を見た。
 そこにいたのは、片腕と片足をなくした男。
 彼が、じっと自分たちを見つめている。
 「お父さん…?」
 史郎は駆け寄りたくても、緊張して体が動かなかった。
 声も震えていた。
 ただ彼の瞳を見つめ返すので、精一杯だった。
 「お父さん…っ」
 もう一度声を出すと、ふっと、正史が柔らかい微笑みを史郎に向けた。
 そして、優しい優しい声で言う。

 「こっちへおいで、史郎」





 ――貴一から離れて、こっちへおいで。
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