遠い戦地で君を想う

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  (伍)  

 約束します、咲子さん。
 私はきっと帰ってきます。

 君のもとに、私は必ず帰ってくるよ。


 3.
 「どうして貴志さんっ! どうしてそんなことをするの…?」
 「咲子、私を裏切ったのはお前たちだろう!!」
 「私は――」
 「お前は私の妻であるはずだ!!」

 貴志の憤った声が、広い廊下に木霊する。
 咲子の声など、貴志の心に届いているはずもなかった。
 「正史は戦争に送る」
 残酷な言葉が咲子の耳朶を刺す。
 咲子は必死に首を振った。
 「須崎家の人間は戦争に行かなくてもいいのでしょう?」
 土地一番の権力を持つ須崎家。
 政界に顔の利く貴志の父親のおかげで、須崎家の人間は男子に義務づけられている徴兵を金に物を言わせて免れていた。
 「何故、正史さんを戦争に送るなど…!!」
 「お前たちが裏切らなければ良かったのだっ!」
 信じていた従兄と、自分の妻だった。
 2人が自分に黙って密通していたことなど知る由もなく、貴志はただ裏切られた。
 須崎家次期当主は貴志だ。分家の人間である正史が、貴志に逆らえるわけがない。
 「遠い遠い地に送ろう。日本ではなく、海の果ての遠い地へ」
 「貴志さん…!」
 「咲子、お前も須崎家の家名に泥を塗るなど、父様はきっと許しては下さらないだろう」
 「私はどんな覚悟でもできています。だからどうかあの人を死地に追いやるなど、そんなことはなさらないで…!!」
 家を追い出されてもいい。
 正史と通じたときから、咲子はとうにその覚悟はできていた。
 貴志の妻でありながら、そしてその夫との間に生まれた一歳になろうかという赤子の母でありながら。
 罪を犯したのだから、報いを受ける覚悟はしていた。
 正史と共にいられるのなら、どんな仕打ちも中傷も耐えていけると思っていた。
 「貴志さんっ」
 自分を見捨てるように離れていく貴志を追いかける気力もなく、咲子はその場に座り込んだ。須崎家の大きな屋敷の端に位置するこの部屋は咲子と貴志の部屋 だ。
 今その部屋の中には呆然とする咲子と、何も知らずにそんな母を見つめる貴一の姿。
 「貴一…」
 咲子は貴一にそっと近づき、その体を抱き上げた。
 「貴一、私は何て愚かな女なのでしょう――」
 貴志と結婚するまで咲子は正史の存在を知らなかった。
 出会ったのはまさしく貴志との祝言のときだった。貴志の従兄である正史は当然のように出席していて、その時初めて言葉を交わしたのだ。
 「私は貴方を見捨てなければなりません……」
 意味を解さない赤子に、涙目で語りかけていく。
 「貴方と共に生きることなどできないのです…!」
 自分はここを出て行かなければならない。
 今更謝って罪をなくすことなどできない。後戻りのできないところまで来てしまった。
 正史の子を宿したこの身では――。
 もっとも、正史だけは何があろうと裏切る気などないけれど。
 今貴志に謝って、許して貰おうなんてこれっぽっちも思っていないけれど。
 それでも、お腹を痛めて産んだ我が子のことは気がかりでたまらない。
 ――連れて行くわけにはいかない。
 須崎家の長男として生まれたこの子を、連れて行くわけにはいかない。
 寧ろこれからどうなるかも分からない自分の人生に巻き込むよりは、このままここにいた方が裕福な人生を歩めるだろう。
 「貴一――」
 それでも、貴方は私の子なのです。



 「戦争に行け、正史」
 貴志は本家に呼び出した正史に向かってきっぱりと言い捨てた。貴志よりも遙かに体格は細く、消えそうなほど線の細い容姿を持つ正史の、意志の強い目が貴 志を貫く。
 「――私に咲子を置いて行けと?」
 「咲子は私がこのまま平常通り面倒を見る」
 「無理だ、咲子は私の子を身ごもっている」
 本家の中心にある客室に座ってあまりにも平然と言い放った正史の言葉に、貴志は思わず頭に血が上った。そして声にならない叫びを発しながら立ち上がる。
 「お前たちは…!」
 いつからだ、などとは訊きたくても訊けない。
 咲子と結婚して幸せだと感じていた瞬間があった。自分がそう感じていたときに咲子は違ったのだと知ってこれ以上傷つきたくはない。
 2人がどれだけの時間自分を裏切っていたのかなど、知りたくもない。
 たまらなく悲しい現実。
 それを知って、自分がどうすべきか分からない。
 ただ貴志が今は正史の存在が煩わしく、どこか遠くに行って欲しいのは確かで。
 「お前は抗うことなどできないよ」
 精一杯の強がりのように。
 結局は自分の方に分があると、苦し紛れに訴えるように。
 貴志の言葉は、どこか泣きそうにも聞こえた。

 生きて戻った暁には、私は潔くお前たちの仲を認めよう。
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