遠い戦地で君を想う
(漆)
お前は足が動かない。
仕方がないが、ここに置いていくしかない。
分かってくれるな?
我々のおよそ10倍のアメリカ兵がすぐそこまで来ている。
一刻も早くここから撤退しなければならない。
“これ”を残していく。
自分が選ぶべき道を、誤るな。
正史は隊長が自分のために残していった手のひらサイズのそれを見て、自嘲した。
すでに彼はここに1人、暑いこの地で妙に涼しい洞窟の中。
隊の休憩中、見回りをしていた正史はアメリカ兵に撃たれた。弾は右胸の上の方を貫通、出血多量により感覚が麻痺し、誰かに支えられていないと立っている
こともできない。
自分が邪魔だということを、正史も承知していた。
だから自分を置き去りにする皆を引き留めることなどしなかった。
助けてくれと、懇願することもしなかった。
「咲子……」
手渡されたのは手榴弾。自爆しろと、そういう意味が込められているのだ。
「咲子…。生きて帰りたい――」
そう、約束しただろう。
私は必ずお前の元に帰る、と。
それでも足は動かない。逃げられない。
ここにいてはやがてアメリカ兵に見つかって殺される。いや、それ以前にすでに受けた傷が、自分の命を奪うだろうということは容易に分かっっていた。
「さようなら…咲子……」
全身が震えていた。
死ぬのは恐い。何より死にたくない。咲子のもとに帰りたい。他にもやらなければならないことがある。
でもこの怪我でじわじわと死を思い知るよりは。
もう一度アメリカ兵に撃たれて死ぬよりは。
潔く、身を果てよう。
正史はトリガーを引き抜いて、自分の腹に抱え込んだ。そして地に伏せ爆発するのを待つ。
――しかし一向に爆発する様子を見せない。
正史は顔を上げてもう一度手榴弾を手に取った。操作を間違ってなどいない。この状態なら、爆発するはずなんだ。
「………不発弾か…」
果たして運がいいのか悪いのか。
「この傷を背負って…私はどうすればいい…?」
血がドクドクとあふれ出す。
放っておいても、自分の命が尽きるのはすぐのことだと感じていた。
「Who…?」
ギュッと、正史の体が硬くなる。
姿は見えないが洞窟の入り口から、確かに英語が聞こえてきた。
「Our friend…? Japanese…?」
足音が聞こえる。アメリカ兵が2人、正史に近づいてきていた。
咄嗟に逃げようと立ち上がろうとする。しかしやはり、足が動いてくれない。
銃を握る。でも弾がすでに切れていることは百も承知だった。
足音がだんだんと大きくなって、正史の目がアメリカ兵の軍服を捉えた。彼らもさっと正史に銃を向け、言う。
「Alone? You're left…?」
「Don't shoot. He's dying.」
彼らは正史を同情の眼差しで見ると、ゆっくりと銃を下ろした。
「Rest in heaven, sir――」
そう言って、去っていく。
「見逃された…?」
放っておいてもどうせもうすぐ死ぬと、そう思ったから――。
手榴弾は不発。
アメリカ兵も自分を殺さなかった。
ではあとはもう、このまま息絶えるのを待つだけか。
「違う…」
足が動かないのは撃たれたからではなく、大きく切った傷が元だった。出血はそのうち致死量に達しそうだが、現在自分は生きている。
全身麻痺してあまり力が入らない。歩くことはできなくても、這いつくばって移動することならできる。
天が、味方しているとは思えないか。
自分は死ぬ機会を、ことごとく逃している気がする。
生きられるかもしれない…。
生きて帰れるかもしれない。
4.
「だからさ、開けてみようって」
翌日貴一が軽々しく言った言葉に、史郎はため息をついた。
「反対だ」
「何で? 気になるくせに。幸い鍵はここにある」
「開けない方がいい」
学校の正門をくぐり抜ける。正面玄関を入って下駄箱に靴を置きながら、史郎は真剣な瞳で言う。
「――母さん、何かそれに心当たりがあるようだった」
「咲子さんが?」
「絶対に心当たりがあるのに、私にそれを隠した。――あの、母さんが」
「――あの人だって、隠し事くらいするだろう。じゃあこれは知ってたか? 咲子さん、俺の父親と知り合いみたいだ」
「……それは…私たちがお前の家の土地に住んでるから、とかではなくて?」
「違う。何か少しだけ親しげな感じだった」
そんな話、一度も聞いたことがない。
史郎は貴志と言葉を交わしたことさえなかった。
「なあ、史郎…」
教室に入る一歩手前で立ち止まり、貴一が真面目な声で言う。
「もしも“災厄の箱”だと言うのなら、中身は何だろう? 俺たち2人に関係することなのかな。――俺たちの今までの関係が壊れるような、そんな物なのか
な…」
「だったらどうする?」
「だったら開けるに決まってるだろ」
貴一は史郎に微笑みかけ、教室に入っていった。
「コンニチハ」
須崎家を、ある男が訪ねる。男の肌は色黒で、髪も黒い。顔立ちは南洋系だ。
片言の日本語を聞けば、彼が外国の人間であることはすぐに分かった。アメリカ人なら何度か見たことがあった彼を出迎えた須崎家の使用人も、初めて見る顔
立ちに焦りを隠せない。
「あ…あの…どちら様…?」
ようやくそれだけを告げると、男ははっきりと答えた。
「貴一ニ、会イニ来タ」
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